今年に入ってから、脚本家とか 「すでに出ている情報」 からドラマを選択するのをやめよう、と思いまして(でも 「刑事モノ」「事件モノ」 は外す…笑)、今回の月9もそれに倣って、主役が福山サンであること以外はほぼプレーンな状態で見たのですが、これがなかなかよくて感動もして泣いたりもしたんですよ。
ネットの評判もさぞやよかろう…と思って見たら、しかしこれが散々で。
第1回視聴率の結果も出たのですが、10.6%とこれまた福山サン主演のドラマとしてはお寒い限りの結果。 どうしてなのかな、とちょっと分析モードに入ってしまって。
まずこのドラマ、「外周」 がかなり悪いのではないか、ということ。 つまりテレビ局が 「こーゆードラマです!」 と言って宣伝する材料のことですが、いちばんの売り文句は 「『福山雅治』 が3年ぶりに月9に戻ってきた!」 ってとこでしょうか。
そしてその次は、「相手は20歳のドラマ初出演、シンガーソングライターの藤原さくら!」 かな。
そしてそのふたりが織りなす 「年の差」 恋愛ドラマ、といったところではないか、と思います。
しかしこの3つの要素とも、世間的な見てくれが悪いように感じる。
まず 「福山雅治」 という人が去年の結婚で、それまであった吸引力がかなりなくなっている、ということが考えられます。
つまりですよ、ましゃがそれまで独身だったことがましゃの人気につながっていた、というですね~(なんで私がマシャなどと言わねばならんのだ)、まあゲスな分析がまず成り立つわけです(つまんねえ分析だと自分でも思う)。
要するにフジテレビと視聴者のあいだで、福山サンに関するネームバリューの認識に、すでに大きなずれが生じている、ということでしょうか。
そして、その 「結婚してしまった」 福山サンが、47歳にして20歳の新人と 「年の差」 恋愛ドラマをやる、という設定がまた悪い。
以前なら福山サンも 「年の差恋愛」 の設定なんてものともしなかったと思うのですが、さすがに47ともなるとどんな色男でも 「なにそれキモイ」 の世界になってしまう。 「それって親子の設定だろ」 みたいな。
「年の差婚」 に対する世間のイメージというのは、常に 「キモイ」 なんですよ。 それにとうとう 「既婚者」 福山も負けた。
ドラマを見ていると、その 「潜在的視聴率獲得能力が低下している」 福山サンが、すごいモテ男だ、という設定になっていたりします。
そのドラマの中では女の子は誰でも、福山サンに恋してしまう。 オバサンも若い子も。
これはある意味 「嫌味ではないか」、と思うほどの徹底ぶりで、そこに嫌悪感を抱く人もいるのではないか、ということも考えられる。
しかもそのモテ男、ヒモ生活をしてたりする。 いきなりどぎついベッドシーンだし。
「なんだよソレ」 ですよね(笑)。 視聴者に嫌がられるような設定をわざとしてる。
そして福山サンの相手を務める、藤原さくらサン。 最初私はこのコ、石原さとみチャンかと思ったのですが。
この人がですね、福山サンと同じ事務所なんですよ。
世間はそれを、「コネ」 と言います。
こういうの、嫌がられるんだよな~。 これなら石原さとみチャンのほうがまだ年の差少ないしよかったのでは?
藤原さくらサン、彼女はでも、なかなかいい演技をしている、と個人的に思います。
吃音に苦しむ設定というのは、「初めてでそれでは難しいのでは」 という気もするのですが、逆に 「吃音の設定だから演技力のなさもある程度カバーできるのでは?」 という気もするんですよ。
藤原サン演じるヒロインは、自らの吃音に対するまわりの反応が嫌でしょうがない。
吃音だからバカにされる、というのはもっとも基本的な段階なのですが、それを同情されたりいい人ぶられて自分に寄ってくる人間も嫌い。
そういう鬱憤がときどき爆発するのですが、ちょっと普通の人とは違う爆発の仕方をしたりする。
それが、「普通の人の演技をする」 ということより、実は簡単なのではないか、と見ていて感じるんですよ。 却って普通の演技が出来る人が障害者の演技をするほうが大変なのではないか。
しかしそういう設定に助けられている部分はあるにせよ、藤原さくらサンの演技はある一定のレベルには達している。 彼女の醸し出すぎこちなさが、ヒロインの世間に対するやりにくさと、うまくつながっているからです。
今回の福山サンの 「モテ男」 設定も、あまりに強調されているところが、却って 「狙い目」 になっているのではないか、と感じます。
つまりその設定って、福山アゲではない。
「福山アゲ」 って、いかにもフジテレビがやりそうだからイメージの悪さが簡単に伴いやすいんだけど、今回のヤツって福山サン自身の 「自虐ネタ」 のような気がするんですよ。 それを本人も面白がっているようなフシがある。
だってモテ男がフツーに生活するのが、美男美女がわんさか出るドラマの 「日常」 じゃないですか。 そして美男美女だからフツーにあり得ない恋愛をしたりする。
でも今回、自分をモテ男とすることで、その 「アンリアル」 を消去にかかっているんですね。
モテ男だからこそ、世間を甘く見たような自堕落な生活をしてしまいがちになる。
モテ男だからこそ、女性に対して警戒感がない。
モテ男だからこそ、自分に酔っていたくなる時がある。
そっちのほうが 「リアル」 な気がするんですよ。
そして重要に思うのは、その福山サンと藤原さくらサンの話が今回、実はラヴストーリーを目指しているんではない、と感じたことです。
確かに、年下のさくらサンは福山サンに好意を寄せていくような描写があったりします。 でもそれって、単なる 「憧れ」 の域を出そうもない感じがしてならない。
どうしてそう感じるのか、というと、モテ男設定の福山サンが抱えている神代広平って役って、吃音で悩む相手役以上に、音楽仲間で恋人だった女性の死から、いつまでたっても逃れられない悩みを抱えている。 その神代広平が 「どうやって失われた恋人の幻影から解放され、自分が捨て去った音楽と向き合っていくことが出来るのか」 ということが、ドラマの本当の目的、ゴールなのではないか、と私は感じたのです。
つまり、思っていた以上にこれって、「音楽」 がメインのドラマなのではないか。と。
ドラマの体裁を考えた場合、ネットでは 「テンポが悪い」 という意見が散見されました。
だが私はそうは思わなかったな。
まず 「萎える」(笑)ベッドシーンとネットカフェの描写で神代広平の自堕落さが強調され、彼が臨床心理士を担当する自動車整備会社の工員である佐野さくら(藤原さくらサン)の人となりが丁寧に描写されていく。
ここらへんの描写はすべてが必然性を伴っていて、このドラマの前の月9で私がときどき引っかかったような部分が見当たらなかった。 しかも説明セリフなどまったくなし。 「この脚本家は相当出来るな」 と思わせた。
例えば冒頭、さくらが屋上でタバコを吸っているところに同僚のいわゆる 「さくらイジメ要員」 である女の子たちがやってくるのだけれど、ワイワイ騒いでいる話がですね、「ね、タバコの値上げ、ハンパなくね?」「日本なに目指してんの?」「つら過ぎ」。
そんな話をしてる同僚たちが、さくらのタバコを 「もらってい?」 みたいな感じで次々拝借して、新歓(新入社員歓迎パーティ)の幹事を吃音だと分かってるさくらに押しつけて好き勝手な話をどんどん進めていく。
このなにげないシーンひとつ見ても、「セコイようだけどタバコ1本いくらだと思ってんだよ」 みたいな流れになってる気がするんですよ。 この女の子たちがさくらに与えるストレス。 それが一目で理解できていく。
だけど、前の月9で同じように繰り広げられた 「いじめ」 とは、なにかが違う。 前の月9はどこか誇張して見ている側の気持ちを苛立たせるような 「やり過ぎ感」 があったけれど、今回の 「いじめ」 は、「やり過ぎるとまあヤバいし」 という、女の子たちの 「引いた感じ」 が却ってリアルに見えるんですよ(前の月9をそれとなく批判してますね…いやかなりはっきりと、か…笑)。
さくらはそうした、いちいち探すとキリがないストレスのなかで、バイクの運転も結構粗い。 彼女の親友である真美(夏帆サン)とは吃音ながらも結構べらべらしゃべるのですが、その口ぶりもどっちかっていうと悪いほうの部類に入る。 つまり鬱屈がたまってる、ということがそこからすごく分かる。
真美はさくらから頼りにされているのをうざったがっているように最初は見えるのですが、実は自身の結婚を控えている。 真美から結婚を打ち明けられたさくらは、打ち沈んで、真美と初めて会った養護施設での出来事に思いを馳せていく。
そしてさくらと公平を結び付けていくきっかけが、公平の死んだ彼女が好きだった 「500マイル」。
この曲って結構古いので、それをこの年の差があるふたりを結び付けていく材料にするには無理が伴います。
でもその無理はドラマのなかで無理のない状態にやんわりほぐされている。 どうもさくらが好きなのは、リメイク版のようだ。
だからさくらがこの曲が好きな理由はきちんと説明されているし、公平がこの曲を好きなことも、ちょっとした回想ですぐに分かるようになされている。
さくらが新歓の幹事を、すごく努力して克服していく様子も、とても丹念に描かれています。 居酒屋に電話することも、さくらにとっては苦痛の極致なわけなんですが、散々失敗したあとわざわざ居酒屋に出向いて、やっと予約を取ることに成功する。
その様子を、恋人の思い出から逃れてその居酒屋で飲んでいた公平が、やはり隣の女の子に 「キャー」 とか思われながら(笑)目にするわけですよ。
これって普通だったら、「あーあ、あり得ねー設定」とか思うんですが、これって公平がさくらのことを 「見守る」 ためのステップのように私には感じられる。
つまり、このドラマが取っているスタンスというのは、第1回目ではあくまで、自分よりずっと年下の女の子を見守る、スゴモテ中年ヒモ男、という立場なんですね。
それは確かに、「年の差恋愛」 につながる危険性も内包しているけれども、公平は医師仲間である水野美紀サンなんかに接する態度とは、明らかに違う、「上から目線」 なんですね、さくらに対しては。
そこをちゃんと描写しているから、世間的に 「キモイ」 と思われがちな 「年の差恋愛」 にも、スッと移行できてしまえそうな、作者の表現力を感じてしまうんですよ。
そして、「500マイル」 の曲を中心として、音楽療法をしようとするさくらが、自発的に 「500マイル」 を歌うまでが、感動的なクライマックスになるように設計されている。 そしてそのシーンでは、恋人の死以来ギターを持つことのなかった公平が、ギターを手にする瞬間でもある。
かなり用意周到なストーリーだと感じ入りました。
ただ、これから先どう展開していくのかは、ちょっと不安も残ります。 「どうすんのかなコレ?」 という感じ(笑)。 前にも書いた通り、さくらと公平の恋愛がメインではない気がするし(それがメインだったら興醒めする)。
展開によっては、毎回レビューとなりそうな期待も込めつつ。
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「ラヴソング」 第1回 「外周」 つまり見てくれが、かなり悪いドラマ、だが
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