今年の大河ドラマで好感が持てるのは、「それ以上でもそれ以下でもない語り口」 のような気がします。
主人公の真田家は信州の小さな地域を束ねる戦国武将であり、けっして戦国時代を中心で動かしているわけではない。 また、主役の信繁(堺雅人サン)はあくまで真田の次男坊としての立場を失わず、軍議にも出なければ立ち聞きもせず歴史の重要場面に立ち合うなんてこともまったくない。
何でもかんでも主人公たちの手柄にしてしまう昨今の大河ドラマとは、ここが大きく異なります。 そもそもそうした 「必要以上の主人公アゲ」、という時点で大河の資格すらないと思うんですが(キビシーっ)。
しかし彼らの人生の中では、彼らが主人公(byさだまさし)。 「キビシー戦国時代を生き延びるためにオレタチも必死なんじゃ」 というところが分かればよろしい。 そして曲がりなりにも地域を引っ張っているのですからその物語は、一般人以上に面白くなるのが道理なのです(暗に去年の批判してる?)。
しかもこのドラマ、もともとはスケールが小さくても、ラストステージには日本の行く末を決定するキャスティングボードを握る、という華が控えている。 ここが伊達政宗とか山内一豊、直江兼続などとは違う点です。
さらになんだかんだ言って、真田家は末代まで存続する。 「生き残るための戦術」 という点でも、見応えがある。
そのラストステージに向かうロールプレイングとして、序盤では信繁にスライムとか大ナメクジ…いや違った(笑)、薪取り合戦で村人レベルで戦わせてるし。 ドラクエで言えばレベル1から4くらいまでの戦いですよね、アレ(笑)。
で。
「それ以上にもそれ以下にもならない語り口」 は第4回ラストおいてさらに、NHK戦国大河ではほとんど 「お約束」 と化していた本能寺の変を、ほぼバッサリ切った。
こういうのはいいな。
「功名が辻」 でも 「天地人」 でも、大々的にやってたでしょう。
これってもしかして次の回であらためてやるのかな? でもいくら戦国の大ニュースでも、真田は当事者じゃないから。
まあひょっとすると作り手には、「ぼくちゃんの大河では本能寺やらないよ、ね、ね、すごいでしょ?」 というのは、あったかもしれないけど(笑)。
だから信長役の吉田鋼太郎サンも、出たかと思たらあっという間の退場。 ミスキャストでは?と思っていた吉田サンでしたが、こうなるともうインパクトだけがひたすら強い。
その料理の方法も三谷流。
もったいつけて現れて静かな第一印象だったのが、信繁が次に見たのは、明智光秀を狂ったようにボコる姿だった。
これを昌幸(草刈正雄サン)も信幸(大泉洋サン)も見たわけではなく、信繁だけが見た、という設定に三谷サンがしたのは、結構重要な気がします。
信長の権力者としての狂気を見せつけられたそのホントに直後に、信繁は本能寺を知るわけですからね。 それで 「戦国時代、一寸先は闇、なんでもありなんだなァ」 と真田家のなかでいちばん感じたことになる。
物語の説得力を増す手段として、のちに信繁が父と共に豊臣方につくのも、そうした 「時代の不確定性」 を真田家のなかで誰よりも強烈に刷り込まれたからだ、という理由づけをする。 それを三谷サンは鮮やかに見せた。
しかし話はそれますがこの明智を演じた岩下尚史というかた。 役者が本業ではないらしいですね。 学者さんとか? それがまあ、シロート感を漂わせてですよ(笑)、信長に打ち据えられながらニタニタ笑うんだなあ。 これってト書きなのか演出家の意図なのか。
これ、結構深読みさせますよ。
衆人環視の中で信長に辱められるわけですからね。
光秀にしてみれば、ここは深刻な顔をしたり反抗的な目つきをしたらますますリンチがエスカレートするからそれを避けねばならないし、まわりに 「いやいや大したことじゃないですよ」 というアピールもせねばならない。 だっていっぱしの戦国大名ですから。
そしてそのニタニタのなかで、憎悪が増殖する。 シロートさんがやってヘタレ感も出てるから、それまでの大河ドラマでさんざん見てきたような、明智光秀の 「悲壮な決意」 というものを、作り手がここで完全に否定にかかっている気もするんですよ。 こうしたヘタレが、憎しみが募ったあげくにもののはずみでやっちゃった、みたいな。
この演出は深い。 ドラマって、こうでなくちゃ。
しかしこの第4回の白眉は、やはり信長に拝謁に上がった昌幸と、その前座にましました徳川家康(内野聖陽サン)とのやりとりでしょう。
その前段階で昌幸と家康との間に横たわるかつての浅からぬ因縁をさらっと説明する流れがまず見事。
昌幸はかつて武田方として家康を追い詰めまくったという昔話をするのですが、それはたぶん三方が原の戦いのことでしょう。 あれって家康にとってはスンゲー負け戦で、逃げる途中でアレをお漏らしして、それを忘れないために帰って来たとき負けた自分の絵を描かせた、くらいの生涯最高の屈辱だったやつでしょう。
そのとき昌幸が信玄から賜った名前が(蛇足ですが、昌幸が信玄公の名前を口にするとき、いつも少し頭を垂れるのが好印象)、武藤喜兵衛だった。
物語はその、武藤喜兵衛をキーワードとして腹の探り合いに突入するのです。 この話の作りかたはやはりさすがですね。
そして家康というのは、この物語にとって(真田信繁にとって)やはりラスボスなんですが(笑)、そのラスボスとレベル1から4くらいのゆうしゃが、ばったり出会っちゃった面白さも加味している(笑)。 あ~もう、仕掛けだらけだ。
ゆうしゃはそれが家康とも知らないで、無礼な口を聞きまくり(笑)。
それはそうと、やはりこの、家康と昌幸のやり取りの発端となるのは、やはり昌幸が息子の信幸を騙してまで仕掛けた、上杉へのニセの書状なんですが、これを家康がいぶかしがるところからカマの掛け合い化かし合いが始まる。
昌幸は信州のライバル国衆である室賀(西村雅彦サン)を利用してまで織田方を騙すことに念を入れたのですから、書状の真偽はフツーに考えればまず見破られないところです。
でもそこに疑念を持つことで、家康のタダ者ではないところと同類としての嗅覚を表現できる。
歴史的にはこのふたりが 「タヌキ型」 であることは通説なので、やはりそのふたりが腹を探り合うのはドラマとして最高に面白いんですよ。
家康は上杉方の直江兼続が奥の間にいるからそれに訊けば一発でこの書状の真偽が分かるであろう、とカマをかけるのですが、昌幸はそれを見破ります。
その見破りかたがまた、どことなく 「まあ、そのときはそのときだ」 という破れかぶれが入っているようで、「よし、分かった!」(by加藤武サン)という明快な演出ではないところがまたいい。
昌幸の度胸と飄々さが同時に味わえるのが、ドラマとしての醍醐味になっているんですね。
そして武藤喜兵衛という名前を 「忘れた」「覚えている」 というやりとりでさらに家康の心の深層も見えてくる。 真田よ、こちらは何もかも見透かしているぞ、という警告ですね。
ここで感心するのは、やはりこのシーンが息が詰まるほどの緊張を強いてくると同時に、どことなくユーモアを漂わせている、という見せ方でしょうか。 ヘンな空気の抜けかた。 それが三谷脚本のひとつの味でもある気がするのです。
まあ、小山田茂誠を匿うための一連の流れは、どこか空気が抜けまくってましたが(笑)。 でもその緩急が、いいんですよ。
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「真田丸」 第4回 カマの掛け合い化かし合い
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