今年の冬ドラマ。
私は人が殺されるのとか刑事モノとか、そういうドラマを極力見ないようにしているのですが(それはそういうのが多いテレ朝のドラマを極力意識の中から除外している、ということでもある)、今回の冬ドラマは、あまりそうしたフィルターをあまり自分にかけずに見てみることにしました(でもやはり、テレ朝は除外、というパターンが多い)。
しかしこうしてあらためて見てみると、 「殺す」 だの 「殺される」 だのというドラマ、多いですよね。 そんなのばっかり見ていると、殺人ということに慣れっこになってしまうのが嫌なんですよ。
何か気に入らないことがあると人を殺す。
その事情をドラマ制作者が考えれば考えるほど、それを見る人の心のなかに、殺人に対する 「やわらかな免罪符」 が増えていく。
「それだけの事情があるのは分かるけど、人を殺すのはダメだよね」。
人を殺すのに事情もクソもあるか、と思いますよそもそも。
ドラマ制作者は、ドラマの終わりに殺人者に対して、その報いを受けさせるのが常だけれど、それはドラマ制作者の良心でしょう。 そうさせないと殺人助長にしかならないから。 でも、その結末を万人が、「だから殺人なんかしないほうがいいのだ」、と捉えるわけでもない、と私は思うのです。
いちばんひどいのは、さんざん人を殺しておいて、その犯人が自殺してしまうケース。 「死に逃げ」 じゃないですか。 卑怯このうえない。
また、殺人が行なわれるドラマは、往々にしてその手口の披露の場でもある。
トリックの手口を公開する、ということは、手品のタネをばらすというレベルでとどまるならまだしも、完全犯罪、という、警察の捜査の抜け道を、ドラマを見る者たちが一緒になって模索する道筋になったりする。
それに、「人を殺したい」 などと考えた途端、それがすごくたやすく出来てしまうことを、テレビ制作者だけでなく世間の人たちは、もっと考えたほうがいい。 それをしないのは、自分の人生をダメにしたくないからなのだが、自分の人生どうなったっていい、なんて考えている人が人を殺すことを考えたら、目も当てられないじゃないですか。
それが現在最悪の形で顕在化しているのが、ISの自爆テロなのではないか、と私は感じています。 テレビドラマとは一見関係ないことですけどね。 あれは 「自分の人生どうなったっていい」 どころか、そうすることでカミサマに褒められる、自分の人生がそれで最高によく成就できる、とか考えている人たちがやっていることですよ。
ISのタチの悪いところは、ISが組織として成立していない、という部分だと思います。 例えば組織が大きくなれば、どんな組織であれ組織が世間から悪く思われないための自己制御力が働くものです。 「こういうことをやってしまえば、国際的な評価が地に落ち、組織の存続に関わる」。 それがISにはない。 どうすれば世の中に今まで自分が味わってきたモヤモヤを復讐することが出来るのか。 そういう究極に自分勝手な私情で動くうえに、それが神の意志で意義あることへと括られてしまうところにもっとも根の深い問題がある。
こうした動きを封じ込めるのは、空爆やら掃討作戦ではまったくといっていいほど、根本的な解決には結びつかない。 だって世界のそこらじゅうに、普通の人たちと同じように、ISの戦闘員やその予備軍が散らばっているんですから。
日本では 「友人関係のモヤモヤを晴らしたかった」 から自分のおじいちゃんおばあちゃんを殺すみたいなことやってるレベルだけど、でもそれも、「究極に自分勝手な理屈」 で人を殺すという点ではISのテロと同レベル、なんだと私は思います。
人殺し、というのはテレビドラマを作るうえで、「究極の状態」 を作りだす、最も簡便な方法であることは論を待たない。 そこから人の命の尊さを導こう、とする姿勢は、間違ってはいないのかもしれないけれど、そればっかりを見せつけられるのはちょっと辟易してしまう。
簡単なんですよ、人殺しの扉を開くのは。
どんな家にも包丁はありますからね。
国際的な紛争やテロは、包丁が銃に変わったから、スケールが大きくなってしまうのです。 もともと人を殺す武器なんか、世界中から消えてなくなれば、殴り合いで済むことなんですよ(撲殺とかあるけど大戦争にはならないでしょう)。 言葉でだって人を殺せる。
でも、人を殺すのに、事情とか理屈とか、そうじゃないでしょう。
絶対悪なんですよ。
誰もがそのことを知っているのに、それが出来ない。 必要悪とか、もっともらしいバカな理屈を持ち出す。
それはテレビドラマが理屈とか事情とか、考えすぎてるせいも、ほんの数パーセントでも、あるんじゃないですかね。
↧
「ドラマでの殺人」 を考える
↧