はじめにお断りいたします。 この記事、実は5月のアタマから 「真田丸」 のレビューとして書き始めたのですが話がどんどん 「武田信玄」 との比較にシフトしてしまい、結局スランプもあって仕上げるのにかなり時間がかかってしまいました。 まあ一部のかたを除いてあまり期待されていないとは思いますが、結果的にひと月近いブランクが空いてしまいました。 おまけに放送中の 「真田丸」 の内容まで達していないために 「番外編」 に変更いたしました。 ご了承ください。
いま日曜正午からBSで再放送されている28年前の大河ドラマ、「武田信玄」。 実に重厚な作りで人間の情というものがほとばしりまくっている、強烈な印象を受けます。
これと今年放送されている 「真田丸」 を見ると、その落差に愕然となります。
その決定的な差というのは、もちろん 「重厚」「軽い」 という全体的な空気感にあることは明白ですが、もっと中核では 「役者力」 なのではないか、という気がする。
役者の持っている能力が、きちんと 「メソッド(理論)」 的な演技技術によって支えられている、という印象があるのです。 役者ひとりひとりが、きちんと役者している、という感じがある。
晴信(のちの信玄)の父親を演じる平幹二朗サン。 そして晴信のクーデターを支持した重臣板垣を演じる菅原文太サン。 そのひとりひとりの存在感たるや。
特筆すべきなのは晴信の正室のお付きの側女を演じている小川真由美サン。 近ごろとんとお見かけになりませんが、映画にご出演とか、活動はしていらっしゃるようです。
その小川真由美サンが、とにかく 「不気味」(笑)。
しかし近年、このような 「不気味さ」 というもの、ホラーチック、コメディチックに表現されることはあっても、それを情念、怨念というレベルで演技出来る役者というのは、もう絶滅しているように私には感じられます。
その演技技術というのは、一朝一夕にできるモノではない。 きちんとした演技団体に属し、役者仲間で演劇論を戦わせ、きちんとした演出家によって育まれるものなのではないでしょうか。
いっぽう 「武田信玄」 においてその対極を行っているのは主役の中井貴一サン、それに側室の湖衣姫を演じる南野陽子サンだと感じる。
南野サンは当時アイドルだったからそうしたメソッドなど微塵もつけてないことは明らかなのですが(笑)、中井サンもなんか、まだ晴信が若い、ということもあるが演技にあまり深い背景を感じない。
当時も中井サンと言えば 「ふぞろいの林檎たち」 くらいしか印象に残る役がなく 「そんなにキャリアもないのに大河の主役に抜擢されて、さぞプレッシャーかかってるんだろうな」、と思いながら見ていたのですが、いま見てもやはり演技が青い、という気がする。
ただ中井サンはその後めきめき演技力を増していく。
しかしながらそれは与えられたメソッドによるものでなく、自分で培ったメソッドによってひとりの役者となっていった気がするのです。
時代は変遷して、そうした 「確かに育まれた演技力」 というものはあまり重用されなくなった。 「武田信玄」 ではアイドルの知名力で南野サン、コメディアンの渡辺正行サンなどどまりだったのが、今じゃモデル出身とかキャラクター優先の演技者を数多く見かけます。 その評価はここではいたしませんが。
この28年前の大河ドラマ、情報量において現在の 「真田丸」 とは雲泥の差があります。 1回の話で語られる内容が、とても簡潔なんですよ。
それに対して 「真田丸」 の情報量は桁違いに多い。 近年の大河ドラマのなかでも特に傑出して多い気がします。
それはやはり、我々がドラマに対して望む方向が 「役者の演技」 から 「物語としての完成度」 にシフトしていったからではないでしょうか。
それは役者力の低下と密接な関係にあるように思える。
どちらが先かは分からないが、昔は役者が目ヂカラや顔ヂカラ(そんなのがあるのか?…笑)を存分に発揮して狭いテレビ画面から視聴者を魅了したために、あまり内容を詰め込む必要もなかったのです。 今日では、脚本家が役者ひとりひとりに気を配り明確なキャラクター設定を課し、隙間のないストーリー展開で視聴者を惹きつけるしかない。 結果的に演技者は、昔みたいなメソッドに頼る必要がなくなった。
またテレビ画面も大きくなり鮮明化して、昔みたいにムキになって歌舞伎ばりの大見得を切る必要もなくなった。 結果的に全体的な印象として、「役者力が低下した」 ように見えてくる。
「武田信玄」 と 「真田丸」。
どちらが大河っぽいか、というというまでもなく前者なのですが、「リアル」 という側面からドラマを一瞥すると、「武田信玄」 のほうは、「そんなにいつも気を張ってちゃ疲れるだろう」 という気にはなります(笑)。
ただ、戦国時代で誰が何をやらかすか分からない、という不穏な空気を醸成するのは前者の演出のほうが上。 皆が気難しい顔をしてドスの利いた声でしゃべりまくるから、多少ドラマ的な説明不足が生じても、「いや、そういうもんだから」 で片付けられそうな側面を持っている(笑)。
ひとりの人間が何かの行動を起こすのに、いちいちこれが理由だとかあれのせいだとか、理論的な構築なんぞ、必要なかったんですよ。 人とは 「情」、こころで動くものであり、同時に 「打算、計算」 で動くものである。
そのことを表現するうえで、「武田信玄」 も 「真田丸」 も、いささかの違いもないことが見える気がします。
却って 「真田丸」 は、人間そのものを描いている気さえします。 「武田信玄」 では主人公がおしっこをする後ろに誰かが不気味に立つ、とかいう展開は、考えもつかなかったでしょう(笑)。 いや、「信玄」 の前年の大河 「独眼竜政宗」 では家康と秀吉が連れションをしていたんですがこれは有名な話ですから(笑)。
「武田信玄」 では湖衣姫と婚礼をした晴信の前に、橋爪功サンが演じる真田幸隆が登場しました。 真田昌幸のお父さん、信繁のおじいさん、ということになります。
その橋爪サン、中井サンの前に碁盤をドンと置いて、「勝ったら領地をもらい受ける」 という賭けを提案してきた。 まあネットって情報が早いから特に威張って報告するようなことではないですが(笑)、「真田丸」 の昌幸がしょっちゅう碁をやってるのって、これのオマージュなのかな、と。 再放送を見てるとこういう発見もあって、なかなか楽しいです。
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「真田丸」 番外編 28年前の大河ドラマ 「武田信玄」 と比較する
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