「このドラマは豊臣をはじめとした権力の崩壊の必然性を解説している」 などと前回までの感想文を眉間にしわ寄せながら書いていたところ、書き終わらぬうちに始まった次の 「瓜売」。
完全なる 「笑わせ」 モードでまた先週との落差が激しい。 おかげで先週までのレビューは完全にボツ(笑)。 このところ三谷脚本は回ごとに舞台設定を縦横に駆使している印象です。
ウダウダしているあいだにもう次回が迫っておるのですが、このあとどういう仕掛けで攻めてくるのかおおいに楽しみなところ。 ただ、訳知り顔で 「このドラマはこういうドラマだ!」 と偉そうにトータルで解説できないもどかしさがついてまわる(笑)。
いまのところの結論としては、「偉りゃ~人間でもフツーと同じ、ただの人間」 という平凡なところ。
どんなに人の上に立とうが、どんなに偉そうにふるまおうが、人は自らのなかに弱さを抱えながら生きている。
このドラマで千利休は 「己の業(ごう)、さだめ」 と自嘲しましたが、それに翻弄されながら、「真田丸」 の世界の人々は生きているように思うのです。
真田昌幸は自らの策士ぶりを発揮したくてたまらず、真田信幸は自らの生真面目さから生きにくさを感じている。
秀吉は二面性を権力者のカリスマ性に転嫁できているけれど、実はそのなかで発生する自分の精神分裂に気付いていない。
三成は立場的に偉くなった自分と本当の自分の実力がかけ離れていることにもがき、茶々は過去に無理に目をつぶって籠の鳥を演じている。
家康も秀吉に頭が上がらず太鼓腹を出しながら溜息をつき、北条氏政は自分の顔色の悪いのをひたすら気味悪い化粧で隠そうとする。
かようななかで、主人公の真田信繁はどうにもならない人の業のつぶさな観察者になっているのですが、信繁にしたって真田の処遇とかきりの扱いとか、どうにもならないことにもがいている印象があります。
ただ観察者になることによって、信繁のなかには人の世の 「運命」 というものに抗う気概が徐々に培われているように私には感じられます。
このドラマのなかの人間たちは、戦国時代のスーパーマンなどではなく、総じて限りなく人間臭い。 自分の欲望はむき出しにするし、気に入らないヤツはどんな手を使っても排除しようとするし、したくないことはあくまですっとぼけて先送りにする。 常識なんかあったもんじゃありません。
その先に見えるのは、「何がいい、何が悪い」 とことさら 「正しさ」「モラル」 ばかりあげつらう、現代人の欺瞞に対する三谷氏のひそやかな抵抗である気がします。 あ~ハシモトはまたメンドクサイことを考えてるぞ。 だから新しいブログ記事が更新出来んのだ。
「真田丸」 というドラマの特徴として、かなり近視眼的に豊臣政権を見つめていることがひとつある気がします。
つまり足利、織田からの戦国時代の歴史的な流れをとても軽視している。 これは物語の主眼が 「主人公=真田信繁と豊臣との関係性」 にあるからで、そのために三谷氏はもう考えられるすべてをバッサバッサ切り捨てている。 そして近年の大河ドラマの主役たちもバッサバッサ切り捨てている(笑)。 軍師官兵衛も江もちーとも出てこない(笑)。
足利将軍は完璧無視だし、織田信長は出てきたかと思たらあっという間に本能寺。 秀吉が自らの天下取りを大きくリードした清洲会議も、三谷氏自らがこの題材で映画を1本作っちゃったためか(たぶんそうだろう)無視している。 信長との関係性を軽視しているから、信長の後継、という流れも無視できるんですよ。
であるから、秀吉が朝鮮出兵を決めた動機にも 「信長を超える」 という視点が入ってない。 このドラマを見ていると、天下の流動性をとめて豊臣主導の命令体系を確立させる目的で他国を侵略しようと秀吉が決断したように描かれているが、もっといろいろあると思うんですよ。
そのひとつが 「巨大なカリスマであった信長を超えようとする野心」 だと思うのですが、そこを描いてしまうと物語の中心軸がぼやけてしまう。
三谷氏がことこのドラマにおいてあくまで強調したいのは、「天下を取ってからも秀吉の頭脳は明晰だった」 ということなんじゃなかろうか。
近年の大河ドラマの傾向として、「天下取ったら秀吉は鋭角に落ち始める」 という 「ある種の見くびり感」 というものがある気がするのですが、利休を切腹させたのもあくまで三成と刑部の陰謀によるものだったし、「瓜売」 における仮装大会でも、全軍の士気が下がっていることを敏感に察知している。
重要なように思うのは、秀吉はけっして呆けてないというのを観察しているのが、また信繁だ、ということです。 信繁は、秀吉とその周囲の微妙な温度のずれを感じ始めている。
別のドラマのコメント欄でも言及したのですが、もうひとつここ数回私が気になっているのは、きりですね。
彼女は最初現代的なアプローチでドラマをひっかき回すトリックスターだったのが、今じゃ秀次の聖母的立場に変化している。
しかし聖母でありながらその目はあくまでシビア(笑)。 彼女は豊臣家の最暗部、最深部に潜入しているのですが、そこから物語をどう掻き回していくのか、とても興味があります。 なにしろこのキャラはおそらく、このドラマにしか出てこないですからね、後にも先にも。
冒頭でちょっと書いた 「権力崩壊の必然性」 ですが、これは次回以降にとっておきましょう。 蛇足ですが、NHKBSで並行再放送している 「武田信玄」 において、信玄の息子四郎(のちの勝頼)が冷たい瓜に呼ばれていた(笑)。 まさか 「瓜売」 ってこれつながりじゃないだろうな(笑)。
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「真田丸」 第23-26回 人の世の業
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